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■第18話:音楽祭出場のために決めたバンド名は…
 芋生君の家の隣に中原兄弟が引っ越して来た事により、彼の住居はますます溜まり場のおうになってしまった。常に楽器がセッティングしてあって、音は出し放題、知り合いが別の知り合いを呼んで来たりして、常に誰かが来ているような状況である。カンケイないが、目の前、というか周囲の畑は全て大家さんのものであり、大根などが植わっていてそれを適当に掘って食べたりしていたが、これは決してドロボーではなく、大家さん公認なのだ。
音は出せるし目の前にはタダで食べられる食い物がある。住んでいる人間にとっては迷惑な話だったとは思うが、人が集まるようになって当然だったかも知れない。

隣りに引っ越して来た中原君の兄貴の方は、ヤッちゃんと言って、東京に出て来るまでは福岡でバンド活動をやっていたらしい。キーボードを奏きながら唄を唄う松尾さんという人とやっていたこのグループは「シネマ」といって、東京でドラマーとベーシストを加えて本格的にバンドをやるのだという。このバンドに私が入ったのかと思う人も居るかも知れないが、そうではない。彼らはセミプロのバンド、私は単に趣味でベースをやっている人間である。とりあえずは私に関係のない事だった。実際彼らは程なくドラマーとベーシストの新メンバーを加え、4人になって活動を始めたのである。この当時「シネマ」のライブを見た事があるが、「やはりプロは違うなあ」と思う程いいバンドだった。まだデビューしていなかったので、厳密な意味でプロなのかどうかは分からないが、私の見たところでは殆どプロの域に達していて、自分は直接関係がなくても、こんなバンドが知り合いの中にいるという事は、ある種自慢の種でもあった。

和光大では殆ど本格的なバンドはやらなかったと前に書いたが、勿論全くやらなかった訳ではない。大体がいい加減な、練習で大きな音が出れば何でもいい、というような不真面目な、バンドとも言えないようなシロモノだったが、ある程度真面目にやったバンドもあった。友人の早乙女君に誘われてやったバンドはそんなバンドのひとつである。
早乙女君はグレッチというアメリカのメーカーの「カントリージェントルメン」という名の渋いギターを持っていて、それを奏きながらブルースを唄うギタリスト兼ボーカリストだった。私は昔、黒人音楽が好きではなかったと前に書いたが、ハッキリ言ってブルースが黒人音楽なのかどうかと言う事もよく知らなかったのだ。当時の私の音楽に関する知識といったら、この程度のものである。全くいい加減なものだ。
それはともかく、このバンドは割りと定期的に練習もしていたし、早乙女君はギターも唄も中々良かったが、バンドに誘ってもらったクセにこんな事を言うのは甚だ生意気だが、ちょっとだけ退屈でもあった。何故かというと、彼が持ってくる曲は殆ど全部が8分の6拍子のリズムの、スリーコードの曲である。曲のテンポも皆同じくらいだ。キーは多少違ったりもするが、逆に言えばキー以外は殆ど皆同じ、という感じだった。今は全くそんな事はないが、当時の私にとってはそれがちょっとタイクツだったのである。今から考えればヒジョーにハズカシイ話だ。勿論そんな事は誰にも言わなかったが、それはバンドをクビになりたくなかったからである。
そうこうしているうちに早乙女君が曲を作って持って来た。やってみると、今までのブルースの曲とはちょっと違う。浅草の三社祭りの事を唄っているような歌詞である。この間まで英語でブルースを唄っていたのにいきなり三社祭りだ。その上コードが殆どひとつしか出て来ない。これもこんな事を言うのはとても生意気だし、また決してケナしている訳ではなく、むしろその逆なのだが、すごくヘンな曲だった。メンバー一同呆然としていると、彼はこの曲で「原宿音楽祭」というのもに応募するのだという。優勝すれば賞金100万円くれるらしい。
私たちはこの100万円という金額に目がくらんで、やってみよう、ということになったのだ。この「原宿音楽祭」というやつは、確かビクターだったと思うが、レコード会社がやっていたコンテストで、アマチュアがプロになる為の登龍門であり、優勝すればレコードデビューも出来るというものだったが、私たちはデビューよりも100万円の方が目当てだったのである。全く不純なものだ。
応募に当たっては、デモテープや譜面も提出せよとの事だったが、バンドに名前がなくてはいけない。今までは特に名前は付けていなかったのだ。そこで早乙女君はバンド名に「やさしきアホ」という名前を付けたのである。メンバーは皆、そんな変な名前はイヤだと言ったが、彼は「変な名前の方が人に覚えられやすい」といって譲らない。
結局その名前でいく事になった。本番の時の事はよく覚えていないが、他のバンドは皆すごくウマイバンドばかりだったことは確かだ。まあ、最初からダメで元々、という感じだったので別にあせりもしなかったが、結果は、優勝できなかったものの、何と審査員特別賞とか言うものをもらえる事になったのだ。賞金は100万円には及ばないものの15万円である。盛り上がったのなんの、これはうれしかった。
その後、レコード会社の人に会いに行って「バンド名を変えたほうがいい」と言われた記憶もあるが、私たちは元々金目当てだったので15万円に満足してしまい、バンドはその後立ち消えになった。愚かな話だが、当時の私たちはこれで満足だったのだ。正に「やさしきアホ」という感じである。

さて、私たちの呑気なバンド活動とは違って、中原君の兄貴がやっている「シネマ」は、活発にバンド活動をやっていた。楽器を運ぶための大きなバンも買って盛んにライブをやっていた。ベーシストとしてシネマに加入した一色君は、プロではないにも拘らず、とても顔が広く、バンドの知り合いもたくさん居るらしかった。シネマにとっても良い事だったに違いない。
この当時、「東京ネットワーク」と銘打って、新宿にある「ロフト」というライブハウスで月1回、「シネマ」+ゲストのバンド、というようなライブを始めた事を見ても、いかに知り合いが多かったかという事がわかる。私は観客という立場で、月1回のこのライブを楽しみにしていた。
2005/1/20 戻る