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■第14話:若さゆえの失敗…
前回に引き続き、音楽に関係のない話を少しだけさせて頂こうと思う。
 ある時、ゼミの見学旅行というものがあった。京都の幾つかの寺を回り、寺宝の絵画や彫刻を見せてもらおう、というものである。恐らくゼミの武者小路先生のコネであろうか、一般観光客には公開をしていないような寺の見学も許されていた。日頃中々見る事が出来ない寺宝を見る事が出来るという理由も勿論だが、単に皆で旅行が出来るということが私はとても嬉しかったのだ。

宿泊は京都駅に程近い、本願寺のそばにある旅館である。当然裕福な旅ではないので、全員大部屋にゴロ寝であるが、そんな事が全く気にならず、私は嬉々としていた。
次の日は大徳寺の塔頭である真珠庵にお邪魔する事になっている。ここには蛇足や等伯の障壁画があり、村田珠光作と伝えられる庭などもあり、これらは皆国指定の重要文化財である上に、一般公開はしていないという寺なのだ。
我々は全員和やかに盛り上がっていたが、そのうちどこからか日本酒の一升瓶が出て来た。少し味見をしてみると非常に美味である。聞いてみると、地元出身のゼミの学生が持ってきた地酒だというのだ。何人も居るのだから皆で飲めば良いものを、余りの美味しさに私が殆ど独占して一人で飲んでしまった。皆、驚き呆れていたが、当時の私は今より数倍酒に強かったのだ。
たらふく酒を飲んで、その日は気持ち良く眠ったのだが翌日には地獄が待っていた。あんな飲み方をすれば当然の報いだが、まだ若かった私にはそんな分別は無い。酔っ払いというものは不思議なもので、朝起きても自分が二日酔い状態にあるという事を認識出来ない事がある。つまり自分が二日酔いであるという事に気がつかないのだ。その日の私も正にその状態で、極めて典型的な日本旅館の朝食を食べ終わるまで、自分が如何に深刻な状態にあるかという事を理解出来なかったのである。

朝メシを食べ終わった私は、なぜこんなに気分が悪いのだろう、と考えたりしたが、とにかく出発しなければならない。真珠庵に到着した頃には、殆ど最悪という状況に陥っていた。
私に声を掛ける者は誰も居ない。山下洋輔氏も書いていたが、こういう状態になっている者に「大丈夫か」などという言葉を掛ける事はかえって逆効果である。その辺に気を使ってくれたのかもしれないが、「自業自得だ、ザマーみろ」という気分もあっただろう。何しろ美味い酒を一人占めして飲んでしまったのだ。そう思われても仕方がない。

さて我々は建物の中に案内されて、数々の寺宝を見せてもらうことになった。ご存知の方もあると思うが、襖(フスマ)に描いてある水墨画というのは、比較的下の方に描いてあるものが多い。薄暗い事も手伝って、皆しゃがみ込んで熱心に重要文化財である襖絵を見始めた。
ところが私はというと、とてもしゃがみ込むような姿勢をとる事は不可能である。何しろ胃の内容物が喉元まで来ているのだ。蛇足や等伯は勿論見たかったが、その絵の前にしゃがみ込んだりしたらどういう事になるか。その後に起こり得る様々な事態を想像して、私は庭の方を向いて、姿勢を仰角約30度に上げているしか術が無かったのであるが、その庭にしてからが、ゲロを吐いたりしたら大変なことになるような庭なのである。
その日の私はジョーシキでは考えられない程の超人的な根性でもって、胃の内容物を口から外に排出するような事態を避ける事が出来たのだが、もしかしたら山下洋輔氏の言うような「最悪の事態」にまではなっていなかったのかも知れない。何れにしろ、私の最も苦しい二日酔いの思い出として記憶に残ることになった。
 さて、そろそろ音楽に多少関係のある話に戻ろう。ウッドベースをどのようにして入手したかは前に書いたが、これも当然の事ながら自分で現金を用意して買う以外に誰が買ってくれる筈もない、という事は前に書いた通りだ。その為に、つまり楽器を買う為に、という訳ではないが、随分色々なアルバイトもしたが、中でも良かったのは檀家参りのバイトである。

と言っても何のことやら解らぬ、という人も多いと思うのでちょっと説明しておこう。1年間だけ通った高野山大学の同級生に大阪の寺の跡取息子が居た。彼は田中君といって、実家は檀家が500軒もある大きな寺である。その500軒もある檀家を、8月のお盆の時期に全て参らなければならないので手が足りず、手伝って欲しいというのだ。
最初にこの手伝いをしたのは勿論高野山大学在学中だったが、高野山から東京に帰ってからも手伝う事になったのである。年に5日間しかないのが玉にキズだが、こちらとしてはバイト料が非常に良いという理由もあり、また頼む方としては手伝い1人あたり百数十軒もある檀家の所在地を、新人が来ると全て教え直さなければならない、という理由があった。
そして、また来年もやってくれ、という事で結局10年以上も続ける事になったのであるが、東京に戻って浪人をしていた年には頼まれると思っていなかったので、これは助かった。和光大に入ってからも続ける事になったので、このお金で楽器が買えるかも知れない希望が出て来たのである。ただ、バイト料はある程度貰える事は勿論わかっていたが、具体的な金額は終ってみないと分からないので、やる前から具体的にどのメーカーのどの機種を買おう、と決めることは出来なかった。

でも実際問題、欲しい機種は決まっていたのだ。和光大1年の夏休みの終り頃、檀家参りで得た収入を手に、私は楽器屋に行ったのである。この時は本当に嬉しかった。
2004/05/19 戻る