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■第6話:いよいよ、楽器に触れる日が・・・そして、歌も!?

 前回書いた様に、肉体的にも精神的にもかなり辛い3年間を寺で過ごして、これはたまらんという事で大学入学と同時に寮に入った訳であるが。この時同室になった者のお陰で人生が180度変わる事になったのである。前回も書いたが、1年生は1部屋3人で、香川県出身の寺の跡取りである安藤君と、高知県出身の吉本君と一緒の部屋になったのだ。この吉本君と同室になったという事が、私の人生に大きな転機を齎すきっかけになったのである。
吉本君は、小さい頃からクラシックギターを習っていて、ギターが上手だった。部屋でもよく弾いていたものだ。その上、高校の時にロックバンドをやっていて、ベースを弾いていたという事である。ロックをやっていたくらいだから髪の毛も長髪で、いかにもそれらしいルックスをしていた。余談だが、吉本君に、高校の時にベースをやっていた、という話を聞くまで、私は世の中にエレクトリックベースという楽器が存在する、という事を知らなかった。小さい頃、テレビで「勝ち抜きエレキ合戦」のような番組を見たこともあり、エレキギターというものは知っていたが、エレキギターよりも弦の本数が少なく、もっと低い音が出る楽器があるなどという事は考えもしなかったのである。いずれにしろ、当時の私にとっては何の関わりもないものであった。

 さて、同じ新入生の中に、芋生(いもお)君という珍しい名前の人物がいた。芋生君は高野山から電車で1時間と少しのところにある奈良県の五条市というところに自宅があって、学校にも自宅から通っていたのだが、この芋生君も高校の時にロックバンドでギターを弾いていたのだ。そして後になって彼から直接聞いた話によると、大学でもバンドを組もうと考え、新入生全員が一箇所に集まる唯一の機会である入学式の時に、全員を見渡して、いかにもロックをやっていそうな奴を探した、という事である。そこで芋生君の目に止まったのが、私と同室の吉本君だったのだ。彼は、いかにもそれらしいルックスをしている。彼ら同士はすぐに友人になり、やがて芋生君が部屋へ遊びに来るようになった。私が外から部屋に戻ると、彼らが2人でギターを弾いて遊んでいる。最初は気にも留めなかったが、そのうち煩いと感じるようになった。吉本君の部屋であると同時に、私の部屋でもあるのだ。「勝手に他人の部屋に入りこんで、ジャカジャカ、ギターなんぞを弾きやがって」などと思って文句を言ったこともあるが、まぁ、そのうち仲良くなってしまった訳である。

 寮に入った事によって、私の生活は一変した。高校の時は寺に住んでいて、学校にいる時以外は寺の仕事に追いまくられていたのだが、大学で寮に入った途端に、学校に行く以外は全く暇になってしまったのである。「小人閑居して不善を為す」ではないが、様々な事を考えるようになった。何しろ考え事をする時間はいくらでもあるのだ。「自分はこのままで良いのだろうか。自分の人生は一体何なのだ。」等というような事だ。サラリーマンなどは絶対にイヤで、といって親父の仕事を継ぐのもイヤで、坊主になって俗世間との関わりを絶ち、水墨画の菜かに出てくる仙人のような生活をしようと思ったのではなかったのか。しかし、実際僧侶としてやって行く上で、俗世間との関わりを絶つなどということは不可能である、という事が、3年間の寺の生活で身に染みて判った。実際問題、僧侶で生活をする、という事はどこかの寺の住職になる、という事なのだが、これはある意味最も俗っぽいというか、自分が最も忌み嫌っているところの金勘定をしなくてはいけない仕事なのだ。寺の住職とは会社の社長のようなものなのだ。勿論、世の中にはひたすら修行に励む偉い坊主もいる。だが、そういう人でも完全に俗世間と関わりを絶っている様な人はいない。それに、山奥で自給自足の生活をすると言っても、日本中の土地は必ず誰かのものであり、他人の土地に勝手に住みこんでいれば文句が出るに決まっているし、自然の豊かな山奥などは大抵国立公園などになっていて、国が相手だと話は更にややこしそうだ。元々そこに住んでいるのならともかく、後から来た奴の勝手な事情でそんな土地を貸してくれたり、安い値段で売ってくれるとも思えない。第一、金が無い。それに金があったとしても、近所に連れ込みホテルか何かが出来てしまったりしたら話にならない。これは困ったぞ、などと当時の私は考えたのだ。そんな事を考えているうちに、「婿養子に来ないか。」等という話が来るようになった。寺では、何故か子供が娘ばかりだったり、息子が居ても寺を継ぎたがらない、というところが多い。寺というのは殆どが「○○宗○○派」というような教団に属していて、住職というのは宗教法人法の上では、寺の管理人なのである。自分の次の管理人(つまり後継ぎ)を見つけられないとなると、自分が寺から出て行かなくてはならない事態も考えられるので、探す方は必死だ。そこで知り合いの寺の次男坊などに目を付ける訳であるが、私のように実家が在家、つまり寺ではなく、尚且つ僧侶になりたいような奴は、人数は少ないが条件としてはうってつけなのである。婿養子に行ってしまえば、生活は一生保障されたようなものなので私も一瞬考えたが、やはり婿養子などはイヤだったし、「明日どうなっているかわかっている人生などは詰まらない。」などと生意気な事を考えて、婿養子に行くのは絶対にやめようと思ったのだ。私のような在家出身で婿養子に行かないという風に決めるという事は、職業として僧侶をやっていける可能性を自ら閉ざす事にもつながる。別に職業でなくても良いではないか。何の仕事をしていても仏教の修行は出来る筈だ。僧服を着ていようが何だろうが、髪の毛があろうが無かろうが、そんな事は関係無い。ならば、このまま高野山に居続けても仕方がないのではないか、等と思うようになったのである。

 夏も過ぎようとする頃、前述の芋生君が私に向かって意外な事を行った。「学祭で歌を歌わないか」というのである。10月に学祭があるのだが、その時にバンドの演奏をやりたいらしい。前に書いたが、私は声明の成績が良かったので、こいつに歌を歌わせれば何とかなる、と思ったのかもしれない。しかし私は音楽に興味は無いし、人前で歌った事などないので、即座に無理だと言って断った。ただ歌うだけでなく、ギターを弾きながら歌え、というのである。そんな事が出来るわけもないのだが、「大丈夫大丈夫、簡単や。ワシが教えたる。」とか何とか適当に言いくるめられて、本当に出る事になってしまった。曲は井上陽水の「傘がない」。私は学祭の実行委員もやらされる事になっていたので、これは大変な事になった、と思った。予断(が多いが、考えてみたら、このコラム自体、全部が余談のようなものなので、まぁいいか)だが、芋生君達は洋モノのロックが好きで、本当はグランドファンクレイルロードというバンドの「ハートブレイカ−」という曲をやりたかったのだが、そんな曲を歌える奴は高野山には居ない。そこで日本語の歌なら何とかなるだろう、と私に「傘がない」を歌わせる事にしたらしい。大きな声では言えないが、「ハートブレイカ−(グランドファンク)」と「傘がない」は、メロディは少し違うが、テンポ及びコード進行は殆ど同じなのである。それはともかく、何とか人前で歌ったのである。しかしこの時点でも、まだ音楽に興味を持つという事はなかった。何しろ自分は人生の重大な岐路に立っていると思っていたので、音楽どころではなかったのである。この続きは、また次回に。

2003/05/04 戻る