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■第5話:高野山生活の第2話。歴史にちょっとだけ詳しくなれます。

 寺の生活のあまりの多忙さに、最初の数ヶ月は無我夢中で過ごしたが、時間が経ってくると、段々疑問を抱くようになってきた。布団の上げ下ろしに掃除、膳運びに風呂の世話、浴衣配り等々。これでは旅館に就職したのと同じではないか。肉体的に辛いのは最初から覚悟していたから気にはならなかったが、俺は坊主になる為にわざわざ東京から高野山に来たのではなかったのか。もう少し坊主らしい事をしなくては、と思うようになったのである。もっと座禅を組んだり、お経を読んだりしたいと思ったが、一番下っ端の小坊主である自分が、勝手に本堂でお経を読んだりする訳にはいかない。そこで、奥の院にお参りに行くことにしたのである。
奥の院というのは何かというと、高野山を開創した空海(弘法大師)の墓所のことである。高野山は東西に細長い町であるが、その東の端にあって、入り口に小さな川が流れていて、一の橋という橋がかかっている。橋を渡ると鬱蒼とした杉の木が文字通り林立し、その間には苔むした墓石が何十万基と立っている。その間を縫うように御影石の石畳の賛同参道が、空海の墓所へと伸びていて、昼間でも薄暗いようなところだ。余談であるが、何故奥の院に、そんなに沢山墓があるかというと、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、中央で弾圧された浄土教の僧侶達が、都から遠く離れている高野山に多数逃れてきて、庵室を構えて住み着いたのであるが、彼らが「高野浄土思想」というものを創り出し、全国に宣伝して回ったのである。「高野山に骨を埋めれば、極楽浄土に生まれ変われる」というものだ。その宣伝によって高野山に墓を作る者が沢山いて、現在のような形になったと思われる。特に奥の院は、「弘法大師のお膝元」という気分もあったかもしれない。また江戸時代になると、幕府が外様大名の経済力を弱めるために、高野山"にも"巨大な墓を建てさせた、という事もあった。現在でも当時の大名家の墓が多数残っている。

 私が住んでいた寺は比較的奥の院の近くで、一の橋まで歩いて大体5分で行けた。ただ、一の橋から空海の墓所までは結構距離があって、普通に歩いても、樹齢数百年の杉の木の間に多数の墓石が建っている中心を貫く参道で30分はかかった。昼間は学校があるし、寺の仕事もあるので、深夜仕事が全部終わってからから行く訳である。昼間でも薄暗いような所なので、深夜となると、本当に漆黒の闇だった。街灯はあるにはあるのだが、故障か、或いは誰かが悪戯で消すのか、点いていない事が殆どだった。曇っている夜などは、手探りで行かなくてはならない程暗い道を、片道30分も1人で歩いて行くのは、最初は気持ちの良いものではなかったが、何日も通ううちに段々慣れてきて、暗闇も兵器平気になったのである。ただ、時々、参道の脇に立っている石灯籠の頭をぶつけたりしたことはあったが・・・。

 夜、仕事が全部終わり、全員が寝静まると、おもむろに僧服に着替えて1人で出かける訳である。一の橋の前まで来ると、その中からは聖域だから一礼して橋を渡る。真っ暗闇を30分程歩くと奥の院に到着する。弘法大師廟自体は小さな建物だが、その前に、燈篭堂という巨大な建物があるので、その後側に回り込んで、立ったまま約30分程読経し、燈篭堂の後側の縁側でしばらく座禅を組み、そして帰る、というようなことをほぼ毎日続けるようになった。仕事が全部終わって、本来であれば睡眠を取る時間に行く訳だから、体力的には大変厳しかったが、学校の授業中は寝ていたし、飯も前に書いたように毎食ラーメンの丼で3杯食べていたし、何よりも少しは僧侶らしい事をしている、という思いがあったので、厳しくても平気だった。

 必ず毎日行く、という訳ではないにせよ、真夜中の奥の院のような所にしょっちゅう行っていれば、あってもおかしくない事なのかもしれないが、妙な体験(いわゆる怪奇現象、あるいは霊体験)を、何度か経験した事があるが、その話は別の機会に書こうと思う。とにかくこの頃は、所謂音楽とは全く関係の無い生活で、将来音楽をやる様になるとは夢にも思っていなかった。自主的な奥の院参りはコンスタントに続けていたが、そのうちに同じ寺に住む同僚、というか同級生達と外に酒を飲みに行ったりする事もあった。一応修行中の僧侶でありながら、それ以前に高校生の分際で飲みに行くなど、師僧に見つかったりしたら、ハリツケ獄門、市中引き回しのうえ打ち首、ということになっても文句は言えないのだが、僅かではあるが小遣いをくれる上に、高野山は観光地でもあるので、その手の店もいくつかある。結果としては、睡眠時間は益々少なくなり、学校へは本当に寝に行っているだけの様になってしまったのである。

 まぁ、何だかんだ言いながら、ほぼこの様な感じで3年間が過ぎて行った。時には、この場にはちょっと書けないような恥ずかしい事もした様な気がするが、概ね真面目な僧侶及び高校生だったと思う。私は実家が寺ではないので、本来であれば、高校を卒業して大学に進学しても、そのまま寺に居続けて、一人前になるまで、つまりどこかの寺の跡取になる事が決まるまで奉公するのだが、あまりのプライベートな時間の無さに、大学進学と同時に寮に入ることを決心したのである。進学と言っても大学も高野山大学で、僧侶を辞めるという訳ではないので、師僧も渋々承知してくれた。人生には幾つかの大きな転機になる瞬間があると思うが、進学と同時に寮に入ることが決定した時が、まさにその瞬間の一つだったと思う。

 高野山高校から高野山大学に進学した者は私を含めて何十人も居たが、私が入寮する前年に、大学の寮の寮生が首吊り自殺をするという事件があり、高野山に居た者は皆その事を知っていて気持ち悪がっていたので、その年に高野山高校から高野山大学に進学した者の中で寮に入ったのは私1人だけだった。寮の同級生は全員違う高校から来た者ばかりだったのである。1年生は、1部屋に3人ずつである。私と同室になったのは、1人は香川県出身の寺の息子の安藤君、そしてもう1人は高知県出身の吉本君だった。この吉本君と同室になったという事が、これまた私の人生に重大な影響を及ぼすのだが、ここから後は、次回に譲ることにしようと思う。

2003/03/09 戻る